昭和44年2月14日 夜の御理解
「信心は日に日にさら」と、こう言われますけれども、日に日にさらな心で信心をするということ。いつもそれを心に掛けておりますから、さらな心、さらな心と自分でやはり求めておりますけれども、さらでない証拠に生き生きしたものが生まれてこないと、こう言う。
私、今お風呂から上がってからちょっとコタツの方に入りましたら、とにかく、あの、ガスの匂いが一杯。それで子供達は本を読んでるんですよ。それから私は…、炭団のガスなんですよね。それで、あっちこっちこう開けましてから、それをもうとにかく、あの、ちょっと吸い込んでから気分が悪かったんですけれども。
それが中にずっとおると分からないんです。気が付かないんです。ね。それをその、ちょこっと入って「あらっ、こらガスの匂いしよるばい」ということが分かるようにですね。これはあのほんとに、あの、お互い心掛けなければいけません。その、信心のそういう、ひとつの、何と申しますかね、えー…、えー…、自分で心掛けておるようであっても、その、いつの間にかそれに気が付かんでおるといったようなことが多いのじゃないだろうかと、こう思う。
ですから、あの、お互いあの、それであの何ですかね、このさらな心ということに、あの、これはあの、いわばガスが、こう、へん満しておるなというようなものに気付かして頂く為に、やはり、あの、さらな心でなければ、あの、非常にその、私達がね、すぐ自分の改まらなければならないところとか、自分の非といったようなものに、もう気が付かなくなったり、どんになった時には、もうさらでない証拠ですよ。
もう毎日こうやってお参りさしてもらって、毎日お話を頂いて、なるほど有り難い、有り難いと言うておるようであるけれども、その、自分の足元に気が付かない。自分の非に気が付かない。例えば、自分の口臭の臭さが、その、自分で分からないようにですね。ですから、もうほんとにあの、心掛けておいて、周囲から、または自然の様々な事柄の中からです、ハッと自分で気付かして頂くような、あの、事に出会いましたら、すぐそれに取り組んで改まってまいりませんとね、さらな心のようで毎日にしよるようであって、さらな心が無くなっておる。証拠には自分の非というものをひとつも自分の非に、いわゆる自分の口臭の臭さというのを気が付かない。ね。そこから私は、その信心がマンネリ化していしまう。
毎日有り難い、有り難い、毎日…と言うてその、お参りをしておるようであるから、さらな心かというとそうでない場合があるんですよね。それは、ちょうどあの、ガスの中、ガスのこもっておる部屋におっても、それが中におっておると気が付かないようなこと。いつの間にかその、ガスに冒されて。それを脇から入ってくると「あらっ、こらガスの匂い」と気が付くのでございますけれどもね。
ですから、信心もやはり同じようなことが言えれると。いよいよ、さらな心というものに取り組まなければね。ですからほんとに、えー、自分の非に気が付かない。それを周囲のせいやら人のせいやらに考えるような時には、もういよいよその、信心が、まあ、さらなものが欠けておる時であり、マンネリ化していきよる時ですから、そこに、さらな心を目指しての日々で…。
今日、あの、大阪の泉尾教会の先生が盛んに最近使って言葉の中に、NEWということを使っとるですね。新しいということでしょうね。例えば、「New泉尾」だと、こう言う。だからそういう意味で私どもは、やっぱり「New合楽」という、ひとつの新たな合楽の信心というものがここに、今までの信心を脱皮して、新しく誕生しなければならないといったような、まあ雰囲気を最近感じます。それにはどうでもお互いが、さらな心を、いよいよ追求してもらいませんと、信心は日に日にさらでございますと、三代金光様が仰っておられた、そのさらな心を求めて、ひとつおかげを頂いていかなければならない。それを特に、その、感じますですね。
それが私たち、こうやって合楽の中にばっかりおりますと、あの、気が付かない。ね。よっぽどこちらが心掛けておりませんと誰でも、「あなた、息が臭いですよ」と、言うてくれませんからね。だから自分の息の臭さというものをですね、ほんとに自覚して、心掛けておかんと相手に失礼になるというのではなくてからもう、神様に御無礼になって、そこから信心が、いわゆる色彩を無くしてくるようなことになってきてはなりませんからね。
どうぞ。
入力者 末永 清和